“愛”と“癒やし”のために・・・

この世界の “やさしさ”や“愛” そして“癒やし”を伝えていきたい。

この“世界”のやさしさとは

[この“世界”のやさしさとは]
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ほとんどの人は気づいていない。
そしてまた、“それ”を、見ようともしていないだろう。

そのやさしさを知った方が、人生に対するとらえ方が
変わるかもしれないのに。

 

きょうはすこし“医学”の関連から、私の感じているところを、
お話をしてみよう。


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ヒトという存在は、“やさしさ”によって生かされている、といえば、
笑われるだろうか。

“医学”を学べば学ぶほど、その緻密なはたらきや精妙な仕組みに
感心するばかり、になる。


“愛”って、基本的には相手を“生かすこと”ではないだろうか。

からだのすべての機能や、その臓器、器官が“あなた”(私)を生かすために
はたらいている。

それは、すべての“ヒト”に対してだ。

“守り”は『免疫系で』
“環境の変化への対応”は『自律神経』や『内分泌』で。

そして驚くべきは、絶えず“新しく”している、ということだ。

 

この世界の動力やエネルギーに関係している「古典物理学」には
“壊れたものは自ら元には戻らない”という絶対法則がある。

“生き物”はその法則から離れたところに“在る”
傷がついても、自らを元に戻そうとするはたらきがある。

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赤血球の寿命は3日といわれている。
あの硬そうな骨だって、「破骨細胞」と「骨芽細胞」によって、
破壊と創生のバランスがとられ、絶えず“新しく”保たれている。

私たちが、それを一切意識していない、となると、
いったい誰が、“それ”をしているのだろうか。


 別に知らなくったっていい。

 でも、自分が生かされていることに、ほんのわずかでも“感謝”して、
 生きることができるようになると、
 
 ほんのすこし、“あなた”(私)の人生が、温かく、なる、
 のではないだろうか。


(『西洋医学』と『東洋医学』からの“癒やし”については、このあとも記す)

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サービス残業???

[サービス残業???]
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最近、「サービス残業」が話題になっている。

・・・ほんの少し前の、古い日本を生きてきたものとしては
違和感を感じる。


 世界と歩調を合わせる?
 訳がわからない。


日本という小さな島国を、世界有数の国にまで引き上げたのは
職人気質の技術力と、使うものの気持ちを“思いやる”工夫、
そして、いいものをつくる、という自らのプライドではなかったか。

 

そして欧米人とは、“脳”も違うし、体の構造も少し違う。
虫の音を欧米人は“雑音(ノイズ)”ととらえるが、日本人には
“秋の知らせ”だったり、“風流”だったりする。

 

「腸」の長さも違うし、「遺伝子」も違う。
ある種の抗体が、片方にはあって、片方にはなかったりするのだ。


日本人の勤勉さは、義務や責任や苦役に耐える力じゃない。。。

 


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“愛と癒やし”の育てを目指したい このブログで、
なぜ、こんなテーマを話題にするのだろうか。

 

それは、仕事に対する考え方だ。

 

仕事の生きがいを感じているときは、あまりストレスは感じない。

その達成感は、積極的な“癒やし”であり、ストレスの解消とも
言える。

 

なぜ、仕事の時間を減らそう、とするのか。

それは、仕事を“生活のため” “義務”“責任”のように感じている
からだ。


“仕事”を悦び、と感じている人は、ストレスは少ないし、
“生きがい”や“やりがい”を心に持ちながら、“仕事”をしている。

 

そういう人は、
そもそも“癒やされること”自体を、あまり必要としない。

いいわるいは別にして、“仕事”をしていること自体が、フツーなの
だ。

 

その“生きがい”から考えれば、
サービス残業”など、陳腐に思えて仕方がない。

 

“癒やされること”とは、自らの“生き方”を、自ら選択することだ。

そして、誰かを“愛し”、 だれかを“癒やしてあげたい”と決意する
ことだ。

 ・・・私的には、そう思っている。


大切なのは、何より、最優先で、いちばん時間をかけて、
自分の“仕事”を見つけることではないか。

そして “自らを心からの幸せ”にすることだ。

“癒やし”さまざま

 

“癒やし”には“愛”が不可欠だけど、
その内容は、それぞれだ。

経済的困窮にはお金が、病の苦しみには“治癒”が、そして精神的な
苦しみには“愛を知ること”が必要になってくるだろう。

なかでも、いいようのない“虚無感”に陥る、というのは、
自分でも訳がわからないことが多い。

私がそうだった。

 

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むかし、新聞配達をしていて、朝まだ暗い内や夕方、料理をする音や
団らんの声が聞こえてきたりする。
そういうときに、急に気分が沈む。 ・・・“うらやましさ”とは少し違う。


すこし大人になって、喫茶店(カフェ)などで仲間と話をしていて、
どこかのテーブルで女子大生などがキャピキャピしていると、急に、
自分が、虚しくなる。

 

若いころには、そのわけがわからず、ただ、自分がいやになっていた。
何をしても自信が持てず、心の内に劣等感や自己卑下の気持ちを持ちながら、
表面的には強がっていた。


この歳になっての“一応の答え”は、
心の奥底の“自分には無条件に愛してくれる存在がいない”という想いが原因
だったのではないか、ということだ。

 

5才で母親を亡くしたことが、何十年も“自分の不足” “喪失感”になって
続いている。

 

 

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現代は、共働きの夫婦、家庭が多い。
そして、子供を産んでも、すぐに保育に預け、仕事に復帰したい、という
女性も増えている。

 

 ・・・私の小さいころの状況と、変わらないような気がする。

今の子供たちも、たった一人の“無条件の愛を注いでくれる存在”がないまま、
そして心の中に“どうしようもない我慢”や“喪失感”を持ったまま、

大人になっていくのだろうか。


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おそらく、充分な愛を受けたと感じないまま育てば “大人”にはなりきれない。
いつも、“愛を試そう”としたり、愛を信じなくなるのではないだろうか。

私は、自分の子供ができてはじめて、自分のなかの愛を知った。

自分自身に“無条件に愛する存在”ができて、はじめて“愛”を知ったのだ。  

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 “カラダの癒やし”は、ほんの少し“生き方”を変える努力をすればいい。
 また、経済的困窮の救いは、まだまだ多くの手がある。


 しかし、愛の喪失感から癒やされるのは……。


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誰かが、誰かの“愛情の喪失感”を救うことはむずかしい。

その人は何度も愛してくれる人の“愛を試そう”とする。

だいたいは、その人がつぶれるまで、そうする。


そして“自分を愛してくれた人”が離れていって、はじめて、なんだかほっとする。

自分の“信念”はただしかった、と思うのだ。

こんな人生のパターンを続けている人はいないだろうか。


カラダ的な“癒やし”も、経済的な“癒やし”も、そして、心の“癒やし”も
最後には自分が変わるしかない。

例え誰かが愛を込めて助言してくれても、
最後は自分が変わらなければ、救いも癒やしもない。


もし、どうしても自分で変われないなら、誰かをたすけ、癒やしてあげよう、と
することが、自らの“癒やし”になるかもしれない。

それも、“本気”でそうすることだ。
自分の“魂”を救うためには、自分自身の“魂の本質”に従うしかない。

おそらくそれで、ほんとうの“強さ”がもてるようになると思う。

 


2017/05/22(記す)

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・・・“愛”と“癒やし”を育てる

“愛”と“癒やし”の芽は、

強い風や、強烈な日差しから、自分の手をかけて守ってあげる必要がある。

 

過ぎ越しのなかで、触れるものの多くは、非情であったり、無情であったりする。

深い愛や、思いやりの心に“世情”のなかで触れることは少ない。

 

自分の愛し子のように、“その子”が自分で判断ができ、ある程度世の中の“真実の愛”を

見つけられるほどに育つまで、大切に守ってあげたい。

 

生まれたばかりの時は、弱く、そしてまた、影響を受けやすい。

いい年をした大人だってむずかしいのに、生まれたばかりの純真なまだ何も書き込まれていない状態の時には、

 

“いいもの”をいっぱい見せてあげて、

“やさしい”話しをいっぱい聴かせて、

“美しいもの”に、いっぱい触れさせてあげたい。

 

“愛”を育てるには、“愛”をいっぱいあげる。

“やさしさ”を育てるには、やさしさをいっぱいあげる。

“慈しみの心”を育てるには、なにかに慈しみの心をかける、必要がある。

 

“愛”は厳しさでもあるけれど、少し後からでもいい。

“愛”は自立を求め、手放すものだけれど、あふれるほどの“愛”や“慈しみ”を

いっぱい、あげてからでいい。

 

“愛”をいっぱいかけた思い出が、きっと “自分の心”も癒やしてくれる。

報いを求めるのは“愛”じゃないけれど、心のからの“愛”は、きっと世界を癒やして

くれる。

 

手間(努力)もヒマ(工夫)も必要だけれど、

ずっと、“愛”や“やさしさ”でありたいと、思い続けてきた。

 

いつか“自分のすべて”がそうなればいい、と思う。

それまでは私も、“いいもの”をいっぱい見て、“やさしいもの”にいっぱい

ふれよう。

幸せの青い鳥…

砂漠の中に城壁で守られた大きな街があった。

その街に向かう道の端に一人の老人が休んでいた。

そこに若者が通りかかり、その老人が “やぁ、・・・どこへ行くのかね”

と声をかけた。

その若者は、その街に行くと答え、“あの街はいいところですか?”と聞いた。

 

老人は、“以前に住んでいた街はどうだったかね?”と聞き、

その若者は、“いやぁ、ひどいところでしたよ・・・”と応え、以前の街のわるいところを

あれこれと数え上げた。

 

老人は言った。

“そうかい、そんなにひどかったのかい。・・・あの街もひどいよ” ・・・と。

 

・・・しばらくして、また別の若者が通りかかり、

また老人が“やぁ、・・・どこへ行くのかね?”とたずねた。

その若者は、その街に行くと答え、同じように “あの街はいいところですか?”と

聞いた。

同じような問答があったが、今度の若者は、以前の街がすごくよかったことを伝え、

その街はどうか、と聞いた。

 

その老人は、にこやかに応えたそうだ。

“あの街は、おまえさんの前に住んでいた街のように、すごくいいところだよ”と。

 

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私は、この話を忘れられない。

それは『引き寄せの法則』でもあり、幸運ややすらぎをはこんでくれる、

ものごとの“見方”でもある。

 

物事のわるい面ばかり、を見て、

人の批判や、文句、責任云々を言い続けている人には、おそらく死ぬまで

“やすらぎ”はやってこない。

 

厳しい正しさを求める心は、自分に対して向けるものではないだろうか。

人を批判し、責めたところで、自分は成長しない。

 

そして、自分も人も幸せにはしない。

真実の正しさは、“愛” の上にしかない。

それが、母親を5歳で亡くし、ひねくれた想いを何十年も持ち続け、

訳のわからない虚無の想いにさいなまれてきた、“老人”(私)の答えだ。

(私は、砂漠の賢者(老人)のようにはなれないが・・・)

“こころ”と“カラダ”

こころが癒やされなければ、

カラダの不調の改善はむずかしい。

 

 

心療内科」では、ほとんどの病いに『心”』かかわっている、という。

 

基本的には、“幸せな人”のほうが、免疫力も高く、自律神経のバランスも

よく、内分泌(ホルモン)のはたらきもいい。

 

 

整形外科の範疇に入る「腰痛」も、

その原因の85%は不明で、精神面での療法をカバーすることで71%の

改善が見られるという。

 

なかには、ペットの犬を飼うことで、何年も治らなかった『腰痛』が

軽くなったという「例」も報告されている。

 

・・・では、自分の心を癒やすためには、どうすればいいのだろう。

“愛”と“癒やし”のために…

初めまして。

 

まずは、自己紹介。

このブログは、「手技療法」を業としているもののブログです。

このブログにおいて、“癒やし”について書いていきたいと思っています。

 

病の苦しみ、生きていること自体の痛み、そして哀しみや虚しさ・・・。

わたし自身もすべて経験をしてきました。

 

もう答えは見つかったので、いつまで続けられるかわかりません。

でも、私の“手技”と 今までの“学び”が、もし同じような苦しみや

痛みを感じている“あなた”に役立てば、いいな、と思っています。

 

そのために、このブログを始めようと考えたのです。