“癒やし”さまざま
“癒やし”には“愛”が不可欠だけど、
その内容は、それぞれだ。
経済的困窮にはお金が、病の苦しみには“治癒”が、そして精神的な
苦しみには“愛を知ること”が必要になってくるだろう。
なかでも、いいようのない“虚無感”に陥る、というのは、
自分でも訳がわからないことが多い。
私がそうだった。
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むかし、新聞配達をしていて、朝まだ暗い内や夕方、料理をする音や
団らんの声が聞こえてきたりする。
そういうときに、急に気分が沈む。 ・・・“うらやましさ”とは少し違う。
すこし大人になって、喫茶店(カフェ)などで仲間と話をしていて、
どこかのテーブルで女子大生などがキャピキャピしていると、急に、
自分が、虚しくなる。
若いころには、そのわけがわからず、ただ、自分がいやになっていた。
何をしても自信が持てず、心の内に劣等感や自己卑下の気持ちを持ちながら、
表面的には強がっていた。
この歳になっての“一応の答え”は、
心の奥底の“自分には無条件に愛してくれる存在がいない”という想いが原因
だったのではないか、ということだ。
5才で母親を亡くしたことが、何十年も“自分の不足” “喪失感”になって
続いている。
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現代は、共働きの夫婦、家庭が多い。
そして、子供を産んでも、すぐに保育に預け、仕事に復帰したい、という
女性も増えている。
・・・私の小さいころの状況と、変わらないような気がする。
今の子供たちも、たった一人の“無条件の愛を注いでくれる存在”がないまま、
そして心の中に“どうしようもない我慢”や“喪失感”を持ったまま、
大人になっていくのだろうか。
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おそらく、充分な愛を受けたと感じないまま育てば “大人”にはなりきれない。
いつも、“愛を試そう”としたり、愛を信じなくなるのではないだろうか。
私は、自分の子供ができてはじめて、自分のなかの愛を知った。
自分自身に“無条件に愛する存在”ができて、はじめて“愛”を知ったのだ。
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“カラダの癒やし”は、ほんの少し“生き方”を変える努力をすればいい。
また、経済的困窮の救いは、まだまだ多くの手がある。
しかし、愛の喪失感から癒やされるのは……。
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誰かが、誰かの“愛情の喪失感”を救うことはむずかしい。
その人は何度も愛してくれる人の“愛を試そう”とする。
だいたいは、その人がつぶれるまで、そうする。
そして“自分を愛してくれた人”が離れていって、はじめて、なんだかほっとする。
自分の“信念”はただしかった、と思うのだ。
こんな人生のパターンを続けている人はいないだろうか。
カラダ的な“癒やし”も、経済的な“癒やし”も、そして、心の“癒やし”も
最後には自分が変わるしかない。
例え誰かが愛を込めて助言してくれても、
最後は自分が変わらなければ、救いも癒やしもない。
もし、どうしても自分で変われないなら、誰かをたすけ、癒やしてあげよう、と
することが、自らの“癒やし”になるかもしれない。
それも、“本気”でそうすることだ。
自分の“魂”を救うためには、自分自身の“魂の本質”に従うしかない。
おそらくそれで、ほんとうの“強さ”がもてるようになると思う。
2017/05/22(記す)
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